夏も終わりなので、実際に遭った怖い話でもしよう。
今からちょうど十五年前の九月二十八日…… 私がまだ世を忍んでいた大学生の頃だ。
その日、私は入学以来はじめてとなる『学部・学科の移行ガイダンス』とやらを受講していた。籍を置いている数学科についていけなくなったというのが主な理由だが、何かと懇意にしてもらっていた准教授からの誘いもあって、人文科学科への移行を視野に入れていたのである。

「未知のものに触れる良い機会となるはずだ」

キャンパス内にある学術交流会館にて開かれたガイダンスは、そんな有り触れた言葉によって締め括られた。それは、件の准教授が度々口にする文言でもあったが、私の琴線を刺激するほどの感動もなく、虚しく会館の壁に跳ね返るばかりだった。
学科移行に踏み切れるような成果もないままに会館を後にすると、手提げの鞄に仕舞っていたガラパゴスの携帯電話が着信を告げた。真っ先に頭に浮かんだのは准教授の顔だ。
真面目に聴いていなかった事が舞台の上から見えたのやもしれない。だとすれば、この後に待っているのは理不尽に近い叱責だろう。
そう思うと電話に出る気も俄然失せてくるが、鞄から携帯電話を取り出してみると、見知らぬ番号がディスプレイに表示されていた。未だ鳴り響くそれを片手に、私は思案した。
可能性として最も高いのは迷惑電話。次いで、電話番号を変えたという友人の報せ。そして有り得ない事だが…… 最も有り得ない事だが、兄からの電話。もし本当に兄からなのであれば、今すぐ学科移行どころか、そもそも大学を辞めてやっても良い。
などと訳の分からない賭けに興じつつ、逡巡しながらも私は二つ折りになった携帯電話を開き、通話ボタンを押した。
スピーカーから聞こえてきたのは快活そうな男の声だった。瞬間的に迷惑電話と確信したが、しばし耳を傾けてみると、どうやら風向きが怪しい事に気づいた。
電話の向こうに居る男は、自分自身をO村の役人であると説明した。O村は、私の生まれ故郷からもそう遠くない場所にあるM郡の中の村だ。三湖伝説や龍神伝説で有名な場所とでも言えば解る者は解る事だろう。
とは言え、故郷から遠くないというだけで個人的には縁もゆかりもない。そんな村の役人が何の用で? どこで私の番号を?
そう問うと、役人の男は持ち前の快活さを抑え、どこか申し訳なさそうにこう答えた。

「〇〇(私)さんのお姉さん…… ××さんで御間違いないですよね? 既に御存じかもしれませんが、七年間行方不明となっていた××さんの失踪宣告が受理されまして、民法第三十〇条に基づいて普通失踪となりました。つきましては……」

電話の向こうでは話が続けられていたが、私は心ここに在らずといった態で一人物思いに耽っていた。
姉。あの兄と二卵性双生児として埋まれ、私とは二十も歳が離れている。物心つく頃には既に家を出ており、彼女としっかり話した記憶もない。声どころか、顔すらも朧げだ。一体どこで何をしているのか気にならなかったと言えば嘘になるが、案外近くに居たのか。それにしても、七年前から行方不明だったとは…… 行方不明?
そこで私の思考は一旦動きを止め、役人の話を遮る形で浮かび上がった疑問をそのまま投げ掛けた。

「失踪宣告が受理された、と仰いましたよね? 一体誰が届出をしたのでしょうか?」

「えっ、ええと…… 家庭裁判所には受遺者から申し立てがあった、と」

「受遺者? では遺言書か、それに属する書類があったという事ですか」

「は、はい。遺言…… と呼べるような内容ではないように思えましたが、一応死亡した後についての手続き等と、〇〇さんの連絡先が記載されておりました」

役人の言葉は私の知りたかった答えを多分に含んではいたが、新たな疑問を提起する結果にもなった。
私の連絡先が遺言書に記されていた事に関しては、大した問題ではない。私の与り知らぬところで兄と姉が繋がっていたとすれば有り得ない事ではないからだ。
では、受遺者とは誰か? 受遺者とは、法定相続人以外の者に相続させる場合に用いる言葉である。
私はうやむやにされるのを覚悟で訊ねた。

「……姉には受遺者を立てるほどの財産があったのでしょうか」

「それはないんじゃないかと…… はい。死亡扱いとなってから××さんの本籍地に御伺いしたのですが、もう今にも崩れてしまいそうな廃屋が残されているだけで」

つまり、姉は財産もないのに受遺者を立てた。
想像の範囲を出ないが、姉は自分の意思で行方をくらましたのだろう。そしてこれも私の想像ではあるが、受遺者は姉が適当に見繕った無関係の人間だ。失踪宣告の申し立ては配偶者か相続人にあたる者、若しくは受遺者にしかできないからである。幾らかの金品を渡し、「七年後に申し立てしておいてくれ」とでも言い置けば可能であり、遺言書に明記しておけば効力は絶対的なものとなる。
その瞬間、姉は良からぬ連中に目をつけられたのではないか、と思い至ったが、七年も行方知れずとなれば時すでに遅しだ。仮にまだ間に合うとしても、そんな藪を突くような真似をするほどの義理も良心もない。
一瞬、脳裏に『未知のものに触れる良い機会となるはずだ』という准教授のあの言葉が過ったが、それとこれとは話が別である。

「分かりました。お忙しいところ、ご連絡ありがとうございます」

そう言って電話を切ろうとした矢先、役人の男が焦った様子で声を張り上げた。

「ま、待ってください! 本題はこれからでして」

私は気怠い思いで再び電話を耳に当て、言葉を待った。

「先程も申し上げたように、××さんの御自宅が廃屋同然で残されているんですよ。特に苦情があったわけではないんですが、いずれ倒壊してしまうであろう家屋をそのままにしておくと、その、たまたま中に入って遊んでいた子供達などが怪我をする恐れがありましてね。それならば先に業者さんに依頼して解体してもらおうかと」

「ああ、なるほど。お幾らですか」

「費用については自治体が負担致しますので、ご安心ください」

「はあ…… それは有難い話ですが、本題と言うのは?」

「仏壇が」

「は?」

「いえ、あの…… 仏壇が」

「それがどうかしましたか」

役人の男は口籠るばかりで話が先に進まない。口調が荒くなっていくのを抑えられずにいた。

「その、××さんの御自宅に仏壇が置かれていまして、そこに位牌があるんですよ」

私は思わず頭を抱えた。一体何を言っているのだ、と。仏壇があるなら位牌だってある。当然の事だ。
ただ、わずかばかり興味はあった。誰の仏壇なのか。祖父母? 有り得ない。顔も知らないはずだ。同様の理由で父という線もなし。母? いやいや。そんなまさか……。

「位牌には何と記されていましたか」

好奇心。その時の私を突き動かしたものは、やはりそれ以外にないだろう。
私の問いに、役人はおずおずと答えた。

「それは…… 八郎太郎と」

「見間違いでは?」

「いえ、確かに八郎太郎と彫られていました」

八郎太郎と言えば、三湖伝説の主人公とも言える人物の名前…… 自在に嵐を呼び、龍に姿を変える事もできると伝えられている。

「なので、その…… 恐れ多いと言いますか、正直なところ処分に困っておりまして……」

私は閉口するしかなかった。二十一世紀になって早数年…… いくら田舎の中の田舎に住む人間と言えども、未だそんな伝説に怯えているなんて。
そもそも、位牌に八郎太郎と彫られているから何だと言うのか。子供じみた悪戯に決まっている。姉との接点が少ない人生ではあったが、あの兄と血を分けた双子なのだ。これだけは確信をもって言える。