螺旋状に突っ走って死にたいプロフィール
2014/7/22 Tue 07:18
何様ランド


話題:コミュニケーション


人にはこれは譲れないってものが何かしらあるもので

だからこそコミュニケーションというものは、地雷原で地雷を踏まないように歩くようなものなのだ


地雷を踏んだらさようなら

しかも自身も爆弾を抱えながら歩くもんで、いつ爆発するかわからない上に地雷原を匍匐前進してみたり、勢いよく走ってみたり、なんどもぶっ飛ばされて心が四散して
それを拾い集めて繕い、また地雷原に向かう


中には勘が鋭い人間もいて、颯爽を地雷原を歩く人間もいる
自身の爆弾をコントールできる人間もいる

でも大半はそうではないのだ


俺は言葉にたいして敏感なところがある

基本的には寛容で、流行り言葉の乱用だって目をつぶる
地雷を避けるためには何でも利用するのはまちがかじゃない

流行り言葉は万人が理解しやすく、流行ってるあいだは汎用性も高い

言葉自体に罪がなく、使う人間に罪があるだけだ
これは銃と一緒だ
銃が人を殺すのではなく、銃を使って人が人を殺す


だけどやっぱりこれは譲れない、許せないというところはあって

そこは折れることができないのだ

本来、大人というのはもっと柔軟で譲歩と妥協がうまい人間なのだろう

でも俺は「自分が許せないことを絶対に許さない」という大人も必要なのだと思う

自分がそうなれるかは別としてだが


少なくとも今の俺が許したくない言葉があってそれは「コミュ障」だ

やたらコミュニケーション障害、略してコミュ障という言葉を使う人間がたくさんいる

障害という言葉自体、軽々しく使うべきではないのは当然だとして

そういう人間が言うコミュニケーション障害というのは、どれほどのものなのだろう

ちょっと苦手?得意じゃない?相手の気持ちがわかりにくい?気を遣うのが辛い?
なるほど、では走るのは苦手なひとことを
障害がある、と言うのだろうか

疾病や事故などの何らかの要因で、走ることができない
それならば障害があると言えるだろう

コミュニケーションも同じだ

多少苦手だからって、軽々しく障害という言葉を使い、自虐に走ったり、予防線をはるのは良いことだと言えるだろうか

コミュニケーションを取りたくても、身体上の問題や発達の問題でとることができない
話したくても声を出すことができない、相手の声を聞くことができない

そういう類のものを障害と言うのであって、巷に溢れる自称コミュ障はコミュニケーションが苦手なだけなのだ

軽々しくコミュ障と口にする前に、障害とはなんなのか
真に苦しんでいる人間がいることに思いを馳せて欲しい

なんてことを言っても意味がないことを俺は知っている

そんな「世界には満足にご飯を食べれない人がいるから、食べ物を粗末にするな」理論に心を動かされる人間なんて今はほとんどいない

自分の周りだけで精一杯なこの世界で、他人の食事に気を遣える人間は少ない

悲惨なニュースに涙しても、憤りを覚えても
次の日には忘れて笑えるのが人間の残酷さで、強さだ

コンビニ、スーパーなどで大量に廃棄されている食物を尻目に、「食べ物を大事に」なんざ、臍で茶が湧いちまう

コミュ障も同じ

コミュニケーション能力を求め、大事だと強調しているのは社会だ

日本においては本音と建前を使いこなし、空気を読み、気を遣い、耐え忍ぶ風潮をおしつけた末に
コミュニケーション能力を求める

コミュニケーションとはなんなのだ

どういったコミュニケーションが正解なのか

誰も教えてくれず、誰も口にしない(関連書籍はあるけれどね)

そりゃあ不安になるし、焦る
先は見えない、読めない、わからない

ならば予防線を張るだろう

コミュ障だと言いたくもなるだろう


でも、だ
言い訳して、正当化する前に少しだけ考えて欲しい

基本的には自分のために、だ

誰かのために、余裕ができたらでいい

その言葉は本当に正しいのか
コミュニケーションを求められる社会は正しいのか

コミュニケーションとはなんなのか


自分が使う言葉と、自分の気持ちは本当にあっているのか

考えて欲しい

考えること自体に答えも正解もないから、めんどくさいし難しい

でも考えることをせず
ひたすらコミュ障なんて言葉に救いを求めてたら
本当の言葉は出てきやしないのだ


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