普遍を齧る
03/22.お写真.


へいへいへーい、早速日記の記事タイトル書いただけで数日放置してたぜー。非公開にしてる場合、これは端から見たらタイトルだけが見れて中は見れない状態なのかそれともタイトルすらも非公開中は出てこないのかもうよく覚えていないな。よく覚えていないと言えば、えろ広告下の方にやれなかったっけ?私の上表示なのは何故?って思ってたら、ああ、そうでしたタグを貼らなきゃいけないんでした。

昔聴いていた唄を聴かなくなった話を前回の日記に書いたんですがね、思えば本でもそれは言えたことで昔は出す本は全て揃えていた著者さんを初版本を手にした瞬間の喜びを今ではその人の描く物語に一歩引いてしまっている冷めた感覚や名前は聞けど本を手に取ろうとは思わなくなったこと。そもそも本自体すぐには新刊を追えなくなったこと、追わなくなったこと。文字を追えなくなりつつあること、逆にスマホだと見易くなったこともある。

そんな、まるで自分の感性が変わってしまったような感覚に悲しいようなそれも人の言う成長のような何とも言えない気持ちにさせられる。まあ、それを言ったらお前が変化するのに他人が変化しないままなのはおかしくないか?って話で、私の感性が変わったかその人の感性が変わったかだけのなんてことない話だし、もっと端的に言えばお前の好みが変わっただけでしょう?ていうね。
性癖は何年も変わってないのに、根本的な部分は相も変わらず根腐ってるんですけどね。色んなの読みまくって改めて筋肉、乳首、尿道責めが好きなんだなって知ったよ。自分の性癖を知ることは大事だと思うんだよ。褐色も大好物ですがこれは性癖とはちょっと違うんだって一体何の公言なんだか、結腸責めも好きなので、昔下世話な話で出てきた“太いのと長いのならどっちがいい?”って質問には迷いなく後者と答えられる。ワケわかんなくなってくれ。

『あなたを抱きたい』と自分と同じ同性に言われて屈強な男が甘んじて受け入れるシチュエーションに愛を感じてしまう。甘んじる、部分に不満がない、とは言い切れないけど折れてくれると言うか、多分、許してくれることに私は何か『いいなあ』とか『幸せだなあ』って思う。『許されるんだなあ』って。勿論ファンタジーだけどさ、ファンタジーの中くらい愛に触れたいんですよ。
『あなたを抱きたいと思う自分は許されるのだろうか?』と不安に揺れる瞳に優しく頬に触れられたら嬉しいじゃない、幸せじゃない。そんな幸せなふたりが見れるとただただ覗いてる私も何か幸せ。うん、まあ、屈強な男が組敷かれるのに興奮するのはそりゃあそうなんだけどもよ。ただわしは無理矢理は好まんのよ…半ば無理矢理も何か違うじゃない…。意識してもらう為にまず一発やる、は流石に荒療治が過ぎないか?とかね。だからそこはファンタジーでしょ!ってわかっちゃいるんだが仕方ない、心が受け付けんのだ。ファンタジーに潜む私の理性がノーと告げている。
当然それが好きな人はその好きを主張するなり密かに楽しむなり今まで通りでいてくださいな、今まで通り私を無関係の存在で扱っててほしい。たまたま存在知っちゃったのはご愁傷さま、としか言い様がないわ。すみませんね、息の音すらうるさくて。何かちょっと隙間から漏れててさ、音漏れが気になる人には気になっちゃうよね。ごめんね。
好き嫌い問題は語弊を生み兼ねないのを承知で話進めてるんだけどそういうのに興奮はしないがそれを好きな人に否定的と言う訳ではないんですよ、と言うことはね。寧ろ主張したい人はどんなところに興奮するとか話してくれてもいいよ、人の話は面白いからね。
まあ、私が誰かを否定するとか何様なんだって話なのと、そもそもがどこのどなた様が何好きとか別段興味がない。ので。大体がそうではないでしょうか、あ、そうでもないですか?おおっとそいつぁ失礼。

興味が持てるか否かは互いに存在を知ってから、ではないかと思っています。私はね。でもこの地平線の先には一体何があるのだろう、と興味が湧くことはあるのにね。
見知らぬ土地を思っても見知らぬ人を思うことはない、存在を知らなければないのも同じとはよく言ったものだけど存在するかもわからない土地に思い馳せる時があるのは何故なんだろう。



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