都大会の決勝戦、弦一郎を応援するために一人で会場に残った。
ゲームセットの声が響くその場所で、私は背を向ける弦一郎の姿を目蓋に焼き付けた。
なんだか、とても悔しかったことだけは覚えている。
【彼女が気付いた世界の話】
おかしな事だと思う。
都大会を準優勝に終えた弦一郎達は復帰した幸村くんを筆頭とし、その先の全国を見据え、日夜練習に明け暮れていると言うのに。
私は何故か漠然とした不安を抱いていた。
都大会、弦一郎の相手をしていた、あの白い帽子の少年。
驚くべき事に一年生レギュラーだと言う彼を、見たことがあるような気がするのだ。
否、"見た事がある"なんて軽い既視感ではなく、もっと深く、それこそ以前から"知っていた"ような。
気のせい、では片付けられない不快感に頭を振る。
最近はいつもこうだ。
思い出せそうで、全然わからない。
確かに何か知ってる筈なのだが、私は何を忘れているのだろう。
軽快なメロディが流れ、自販機が当たりを知らせた。
欲しかったのは最初に買ったお茶だけなので、オマケには普段飲まないようなものを選んだ。
喉元まで出ているのに思い出せないもどかしさに、息を吐いて自販機から離れると、後ろに並んで居た人が売り切れかよと落胆の声を上げた。
何気なく振り向くと、小学生ぐらいの男の子が売り切れの赤いボタンを睨み付けている。
「あ、もしかして、ポンタだった?」
「…そうっスけど」
「ごめんね、これが最後だったみたい」
柔らかそうな黒髪が風に揺れる。
猫のように大きな瞳に見上げられ、私は息を飲んだ。
弦一郎に、勝った子だ。
「アンタ…立海の」
「え、ううん、私は他校生」
「ふーん、先輩?」
「そう…だね、三年。君は、青学の一年生レギュラーくんだよね」
一年生レギュラーくんは、小さく会釈し、私の手にある350mlの缶をじっと見詰めた。
ブドウ味の炭酸飲料を左右に揺らすと、アーモンド形の目が同じように揺れたので、私は当たったばかりのポンタを差し出す。
良かったら飲んでと苦笑すると、一年生レギュラーくんはやった、と小さなガッツポーズをしてプルタブを開けた。
「それにしても、青学は東京だよね。今日はどうしたの?」
「走り込みがてらスポーツショップまで買い出しッス」
「東京から!?」
「そうだけど」
いったい往復何キロあるんだろう。
あまり運動が得意ではない私にとっては、聞くだけでぐったりするような話だ。
フルマラソンのランナーかよと乾いた笑いをこぼし、ベンチへ座ると、一年生レギュラーくんはさも当然と言った面持ちで私の隣へ腰を下ろす。
頬を伝う汗をシャツで拭う一年生レギュラーくんにハンドタオルを手渡せば、彼はひどく驚いたような顔でありがとと言った。
「やっと見つけたんだよね、コレ売ってる自販機」
「確かにこの辺では無いね」
「詳しいの?」
「地元だから」
「そ」
一通り汗を拭いた一年生レギュラーくんは、喉を鳴らしポンタを飲みきると、案内してよと私の名前を呼んだ。
「案内?」
「……ちょっと迷ったから」
「そっか」
大通りから離れたこの辺りは入り組んでいて、他所から来た人は大抵迷ってしまう。
図書館目当てでよくここに来るのだが、道案内したことも一度や二度ではない。
「良いよ、通り向こうのスポーツショップだよね」
ペットボトルのお茶を一口飲み、立ち上がる。
此処からなら歩いて15分位だろう。
気紛れになつく猫のような少年に感じていた蟠りは、いつのまにか無くなっていた。
「…さっき、笑われるかと思った」
「どうして?」
「迷ったなんて言ったから」
「笑わないよ。この辺、道が複雑だから、一年生レギュラーくんが判らなくなっても仕方ないし」
「それ」
「えっと…、どれ?」
「その、一年生レギュラーくんってヤツ」
住宅街をてくてくと歩きながら、他愛もない話を交わす。
俺、一年生レギュラーって名前じゃないんだけどと唇を尖らせた少年に、私は首を捻る。
そう言えば私は、少年の名前を知らなかった。
試合の時は弦一郎にしか意識がいってなかったからなぁと反省し、少年へごめんねと謝る。
改めて君の名前は、と尋ねた私の頬へ小振りの唇を寄せ、少年は艶やかに微笑んた。
「越前リョーマ、覚えといて。あとこれ、洗って返すから」
じゃあまたね、と。
石化する私を置き去りに、越前リョーマくんは颯爽と走り去りスポーツショップの扉を潜ってしまった。
「えちぜん…リョー、マ?」
生意気で、オチビで、テニスが強くて、可愛くて格好良いんだよ、と。
事故死する前の事だ。
友人に押し付けられたが興味が沸かず、結局一巻だけパラ見して返した漫画の主人公は、そんな名前じゃなかっただろうか。
テニスが上手い美少年達が、全国大会を目指し切磋琢磨する少年漫画。
青春学園の一年生レギュラー。
弦一郎に勝った、スーパールーキー。
越前リョーマ。
「…テニスの王子様」
胸のつかえが取れ、呼吸がスムーズになる。
そうだ、思い出した。
越前リョーマ、弦一郎と対戦したのは、この世界の主人公だ。
「なんだ、そっか」
なんというか、あんまり気付きたくなかった。
越前リョーマが主人公と言うことは、青学が主人公で、立海は…弦一郎は、ライバルなのだろう。
主人公の前に立ち塞がり、成長の礎となる。
倒されるべき、敵。
しばらく頭を抱えたが、私は直ぐに悩むのを止めた。
考えても仕方がない。
私は原作なんて微塵ほども読んでいないし、こんな土壇場まで越前リョーマを忘れていたのだ。
今更シリアスぶって一人悩んでもしょうがないだろう。
どちらが勝つか考えたところで、どうにもならないことだし。
だったら全力で応援するだけだ。
気合いを入れて回れ右をした。
目指すはお肉屋さんである。
お腹を空かせてくるであろう弦一郎に、美味しいものをたくさん食べてもらおう。
私は、精一杯、弦一郎を応援する。
今夜はステーキです!
そう、声高々に宣言する私を見て、散歩中の老婦人があらあらと微笑んだ。
(…と言うか、越前くんにほっぺチューされなかったか、私)