話題:歴史
鳥羽伏見の戦いにおいて、別選隊の戦いは敗れた幕軍の中でも特筆すべき戦いであった。
太刀を失った指揮官は脇差しを抜いて猛進撃の指揮を取ります。弾丸が右目上部当たり、血まみれになりながら戦う姿に、西軍からは『鬼官兵衛』と恐れられます。
そう!敬愛する会津藩の闘将、佐川官兵衛である。
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その後、北越戦争では長岡藩・河井継之助と共同戦線を張り、長岡城の攻防戦に参戦。
長岡藩が敗れたのち会津に戻り家老に就任。城外の各部隊を総指揮します。
所詮は多勢に無勢。各地での敗走・劣勢が続き、遂に鶴ケ城開城。
官兵衛はこの事実を受け入れる事が出来ずに交戦を続けます。交戦を辞めたのは容保からの親書が届いてからなのです。
時は流れ1877年。西南戦争において、旧会津藩士で結成された警視隊を率いて、熊本城の攻防戦に従軍。
『戊辰の仇』をはらすように壮絶な戦いを繰り広げます。最後は銃弾を受け戦死。享年47才。
鬼神のごとく戦う姿は、敵見方問わずに賞賛を浴びました。
幕末から維新にかけて戦い抜き、最後まで会津の誇り守った佐川官兵衛。愚かかもしれませんが、彼の生き様には、
『お見事!』と声をかけたいですね。
何時もコメントありがとうございます。
本当です。
日本人は最後まで戦い抜くのが本懐としてあります。そして敗れし時には敗者の美学があるんです。
先の戦争でも壮絶な戦いを演じた先人がいます。是非、記事にしますので覗いて下さい。
やはり、武士道は戦には手を抜かないんですよね。
大東亜戦争での戦いぶりも、もっと称賛されてもいい。