定義・定理は、この場合、一切何の意味を持たないのだ。
しかし、例えば数学。
数学は嫌いではなかった。
何故なら、公式に当て嵌めて、論理的に道筋立てて考えればだいたい解ける、パズルのようなものだからだ。
図形内の角度や、辺の長さを求める問題などは、そのまんまパズルではないか。
また、確率問題等において、一から全ての事象を試してみるローラー作戦は嫌いじゃなかった。
まぁ、ベクトルも何も知らないあたり、所詮は文系が習う数学の範疇だからだという感じは否めないが。
しかし、このように、数学は数字と公式があれば解ける。
明確な答えが出せる。
この場合は、定義も定理も必要とされる。
ちなみに、私が数学で1番苦手だった解答方法は、証明文だった。
『x=3』をもとめるのではなく、『〇〇の場合、××が△△である事を明らかにする方法の明示』をもとめられているからだ。
いや、これだって、筋道立てて論理的に進めれば簡単である。
ただ単に、それを文章として書き記すのが苦手なのだ。
そして、世界には、未だ完璧に看破されていない証明問題が数多ある。莫大な懸賞金とともに。
数学から離れた今、定義や定理を求める事に、果たして意味はあるのだろうか?
あるとも言えるし、無いとも言える。
しかし、文系分野が求める定義・定理は、文化や分野の定義・定理である。
文化にも、誰かの決めた定義があり、学問的にそれは絶対的な位置に居たりする。
でも、幸せに定義なんかありえなくて。
誰もが人の感情を定義付けて理解した気になるなんて愚かしい行為をしてしまいかねなくて。
目に見えない物を信じ切れない人間は、自分の中に目視出来ない周囲への壁や枠を作る。
自分の中で、周りを自分が理解できるようにカテゴライズする事によって、安心して周囲を眺める。
友達。
仲間。
協力者。
知り合い。
敵。
モブ。
極論、世界は自分と他人の二種類でしか構成されていないのだ。
その中で、どうやって自分を定義づける?
比較対象が無い問題は、難しい。
しかし、自分を誰かと比較した所で何も変わらない。
何もしなければ。
他人と比べて自分はこういう人間だ、とか言ったところで、だから何だという話だ。
自分を高めたいのか、自分を辱めたいのか。
謙遜には世辞を返せれど、卑下になんと答えろと。
『僕って、駄目な人間じゃん?自分の嫌いな所、沢山ある。』
『そうだね。どうしようもない駄目人間だものね。』
『それはちょっと酷くない?』
私にそういう言い方をしたのが運の尽きだよ。
自分だけが、だなんて、思い込まないで欲しいな。おこがましい。
絶対的に自分に自信を持てる人間もいれば、破滅的なまでに自分を憎む人間もいる。
集団の中に居ないと不安で仕方が無い人間も居れば、近寄る人間拒絶して独り気取る人間も居る。
千差万別、十人十色。
だからもしかしたら、私は興味が無いのかも知れない。
それと同じくらい、興味があるのかもしれない。
つまり、何かを定義づける時、その対象は絶対不変な存在である必要がある。
そうでなければ意味が無い。
それはつまり、幸せも私も、定義などという小さな檻に入れる事は無理だということだ。
そして、破綻した文章をこんな時間まで書き綴る私の中では、誰にも言わない本音と本性が埋められ、積み重ねられる。
他人と何処まで近付けて、他人を何処まで理解できるのか。
他人を何処まで近付けて、他人に何処まで開け放すのか。
他人に何処まで近付いて、他人を何処で拒絶するのか。
天にまします誰かの神よ。
私は、あなたが、嫌いです。
所詮はたわいもない言葉遊び。
それでもシンキングマシーンなわけで。